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満州今昔物語 40  

2007年 11月 08日

旧満州鉄道の旅編 15(この旅を終えて)

○ 満州の残滓(名残)は消えてしまったろうか
満州国は溥儀の時代の一三年五ヶ月に過ぎない。中国にとっては早く忘れたい偽満州国家の時代、日本人にとっても終戦の昭和二〇年八月一五日から始まった苦難の時代であった。その満州の名残がどの程度残っているかも、今回の旅行の目玉にしていた内容でもあった。
中国では文革の時、公共の建造物は破壊しなかったと言われている。韓国は日本の支配下の時代の建造物は、ほとんど取り壊したと言われている。国民性の違いなのであろう。満州時代の建造物は石造りの堅牢な建物であり、ヤマトホテルを始めとして、ほとんど100年近い歴史を残したままであった。しかし満鉄の宿舎、大連の日本人街など、もうほとんど原型をとどめないような建物が僅かに残っているだけで、新たな日本人街(日本人へ高額で売る物件)が出来ていたが、誰も買い手がつかないほど高額な建物であった。
 日本人への反日感情などは、地域によって格段の差がある。しかし一般的に日本憎しの感情は、その当時の軍部、政府に対してであり、日本人一般には敵対視することはほとんど無い。「ニイハオ、シェシェ」の世界であった。
○ 気のあった友人との旅の楽しさ
退職してから、安近短のパック旅行をするのが楽しみになった。ヨーロッパは遠くなってしまった。いつも東南アジアの国々、あまり金をかけないようにしながら、気のあった仲間の旅行は楽しいものである。今回はいつもの仲間と、パソコンの学習を通じて創った会の仲間とその友人、10人の8泊9日の旅であった。
総勢18名、皆さん旅慣れた紳士淑女、人触りのいい人ばかり。札幌の添乗員の女性が言うのには「こんなに楽なグループも珍しいですよ」と言うことであった。
○ 鉄道の旅の楽しさ・快適さ
いまNHKのBSで、関口知宏の「中国鉄道の旅」が、毎週日曜日に放映されていて、録画を撮りながら中国の旅を楽しんでいる。
今回の鉄道の旅は、満州時代のアジア号の名残の鉄路、広くゆったりとした客車、軟座のシートにはテーブルがおかれ、窓外の景色を楽しみながら、シャッターをいきったり、茶を飲んだり、トランプ、将棋なども楽しめる、夜汽車の寝台も快適であった。もっとも2階の人は、寝台の上り下りに難儀されていたけれど。
○ 不思議に感じたこと
日本人だと分かると、どうしてバイアグラを勧めるのか。かなりの売店で勧められた。かつての中国大陸での日本人兵士の蛮行の中に、無辜の女性を辱めた日本人が多かったことを彼らは決して忘れてはいない。
 海賊版は無くならないであろう。中国政府がどんなに取り締まるといっても、それは見せかけであり、海賊版を購入する旅行客も圧倒的に多い。私もテレサテンの「中国語版」を買ってきて聞いている。
 このようなパック旅行は光の当たる部分しか回らない。もうすこし陰の地域、中国人の大多数が住んでいる場所にも、案内してもらいたかった。

# by mikino70 | 2007-11-08 06:16 | 満州今昔物語

満州今昔物語 39  

2007年 11月 08日

満州今昔物語 39
旧満州鉄道の旅編 14(短歌でつづる満州の思い出)
日本語教師として大連の大学に赴任していた当時の短歌、今回詠んだ数首を載せながら、お恥ずかしい歌ですが披露しながら最後にしたいと思います。

幾万のコスモス揺るる長春の 邦人眠れるかの地平まで
「大地の子」の舞台は満州、その満蒙開拓団の多くは、長春の郊外などに住み、昭和20年8月9日のソ連の大襲撃に家族は離散、老人、主婦、子ども多くは自害して果てました。そんな骸がコスモスの咲き乱れる地平線まで、その大地の下に、まだ眠っていると言われます。コスモスの花が地の果てまで続いていました。

北満のうから埋もるる野の果てを 弟妹したがへ遁れきし友
 幼き日の北満に空仰ぎつつ 過ごせし日々に還るにあらむ
同期の親友は満州の引き揚げ者でした。彼は長男、4人の弟妹の先頭になって野の果てから遁れ、日本に帰ってきました。心臓の重い病で重篤の身になっても彼は幼かった日々のあの頃を思い出し、そして還ってゆくのであろうか。
70才前にして帰らぬ人になってしまいました。彼との交友の深さを、ときおり辛かったであろう帰国の時にも思いを馳せて詠みました。

一盃の白酒に火照るわが身なり 教え子と酌む六年を経て
大連で日本語を教えた教え子がふたり、今回の旅で会うことが出来ました。酒精四〇度の白酒(バイジュウ)一杯だけで体が火照ってくるのを覚えます。六年ぶりに会った教え子たちの日本語は、日本語本来の美しさを保ち、礼節をわきまえたその言葉遣いに感激でした。

 とこしえの安らぎ中国に在るといふ わがとも長春に九年を経ぬ
長春の大学に日本語教師として九年目、今回の旅で私の同期派遣の古希を過ぎた女性と久しぶりの電話でした。もう日本へ帰っても生き甲斐はない。この長春で死ぬまでがんばるつもりとの電話。大学からは絶大な信頼、学生からは母のように慕われる。そんな日本女性もいるのです。

虐げし日本兵士の子孫にて 銃口に怯ゆ旅順のまちに
旅順の日本軍による住民大量虐殺は、箝口令をしかれたので、日本の歴史書にはあまり記述がありません。七年前の旅順は街角に衛兵が立っており、「日本人だと分かると危険です。話をしないように」と学生から注意を受けました。それから七年、もうそのような気配はなくなりましたが、歴史の足跡は深く重いものです。

あかときの空に向ひて暗唱の 学生のこゑ耳朶にのこれる
大連に赴任した初日、朝の五時前から階下の東屋に学生がつどい、日本語、英語の暗唱に余念がない。腰を抜かすほどビックリしました。まだそのときの声が耳底に残っているような強烈な印象でした。

# by mikino70 | 2007-11-08 06:10 | 満州今昔物語

満州今昔物語 38  

2007年 11月 05日

満州今昔物語 38
旧満州鉄道の旅編 13 (北朝鮮を一跨ぎの丹東訪問 1)
日本へ帰る前日は、瀋陽から三〇〇㎞近く離れた鴨緑江の河口、丹東市の訪問であった。どうして延々と長時間バスに乗せて、鴨緑江くんだりまで出かけるのであろうか、北朝鮮を河口から遙かに望んだとて、人々の暮らし向きも、軍事施設もなにも見えないであろうと、今回の旅行の最終日の日程にはあまり期待はかけていなかった。
 農村の田舎道、農村で働く中国人の姿、家畜の群れ遊ぶすがたなどを見ながら、高速道路を走っていった。こんな田舎に、何故これほどの高速道路を造ったのであろうと思いながら、退屈な車窓展望の景色を眺めているうちに、突然目の前に大きなビルの群れが現れてきた。丹東市に着いたのである。人口およそ六〇万人、遼寧省のなかでも一番の大河の鴨緑江の河口にある丹東である。
 まず昼ご飯であった。メニューは朝鮮料理、目の前がもう北朝鮮である。何を食べたか記憶にないけれど、味のきつい朝鮮料理であったようである。
 昼食後、遊覧船に乗り対岸の北朝鮮の様子を見に行くことになった。

明治43年(1910年)から韓国併合し1945年の敗戦まで、韓国の支配は35年間続いた。 日中、日韓の歴史の軛はいまなお続いて行くであろう。35年の間に歴代の朝鮮総連は齋藤 実を除き、すべて現役の陸軍大将が朝鮮を統括した。あらゆる結社の自由を禁止して、そす朝鮮人は「不逞鮮人」のことばで取り締まっていた日本の歴史があった

朝鮮戦争、遙かな昔になってしまった。昭和25年6月の25日早朝、朝鮮人民軍が38度線を突破して、南部へ進撃を開始した。あの朝鮮戦争の時代は中学生であったから記憶は比較的鮮明である。アメリカ軍が日本の基地から飛び立ち、戦火を交えるに及び、日本の朝鮮動乱特需景気が、今日の日本の経済発展の礎になったこと。ハルピン郊外の石井四郎部隊長の「731部隊」の細菌戦の資料を進駐軍に渡し、そのために一番の非道な行いをした張本人の石井四郎が、資料提供が免罪符となり、戦争犯罪人にはならなかった陰の部分があったこと。
そしてその資料が用いられ、細菌戦、毒ガスなどが実戦に供せられたなど。
 対岸にこどもの姿が
遊覧観光船に乗った一同は、幅広い大河の鴨緑江のはるか対岸まで一巡することにしたらしい。白波を立てて遊覧船は北朝鮮の岸辺をゆっくりと回っていた。岸辺には大勢の軍服を着た兵士が作業のような事をしていたようであるが、何をしていたかははっきりしない。しかし誰1人として遊覧船を眺める兵士はいなく、黙々と作業らしいことをしていた。私が確認したわけではなかったが、小さな子どもが、観光客が手を振ると、それに応えて、手を振っていたという。
兵士達にはもし観光客船がきても一瞥もしないようにという軍の厳しい規則があるのかも知れ無い。我々一同の感想は同じ社会主義の国でありながら、どうしてこのように天と地ほどの経済格差があるのであろう。と言うことであったが、中国国内においても、経済の格差は天と地ほどの違いがある。

# by mikino70 | 2007-11-05 05:45 | 満州今昔物語

満州今昔物語 38  

2007年 10月 11日

満州今昔物語 38

旧満州鉄道の旅編 13 (北朝鮮を一跨ぎの丹東訪問 1)
日本へ帰る前日は、瀋陽から三〇〇㎞近く離れた鴨緑江の河口、丹東市の訪問であった。どうして延々と長時間バスに乗せて、鴨緑江くんだりまで出かけるのであろうか、北朝鮮を河口から遙かに望んだとて、人々の暮らし向きも、軍事施設もなにも見えないであろうと、今回の旅行の最終日の日程にはあまり期待はかけていなかった。

 農村の田舎道、農村で働く中国人の姿、家畜の群れ遊ぶすがたなどを見ながら、高速道路を走っていった。こんな田舎に、何故これほどの高速道路を造ったのであろうと思いながら、退屈な車窓展望の景色を眺めているうちに、突然目の前に大きなビルの群れが現れてきた。丹東市に着いたのである。人口およそ六〇万人、遼寧省のなかでも一番の大河の鴨緑江の河口にある丹東である。
 まず昼ご飯であった。メニューは朝鮮料理、目の前がもう北朝鮮である。何を食べたか記憶にないけれど、味のきつい朝鮮料理であったようである。
 昼食後、遊覧船に乗り対岸の北朝鮮の様子を見に行くことになった。

明治43年(1910年)から韓国併合し1945年の敗戦まで、韓国の支配は35年間続いた。 日中、日韓の歴史の軛はいまなお続いて行くであろう。35年の間に歴代の朝鮮総連は齋藤 実を除き、すべて現役の陸軍大将が朝鮮を統括した。あらゆる結社の自由を禁止して、それを侵す朝鮮人は「不逞鮮人」のことばで取り締まっていた日本の歴史があった。
 
朝鮮戦争、遙かな昔になってしまった。昭和25年6月の25日早朝、朝鮮人民軍が38度線を突破して、南部へ進撃を開始した。あの朝鮮戦争の時代は中学生であったから記憶は比較的鮮明である。アメリカ軍が日本の基地から飛び立ち、戦火を交えるに及び、日本の朝鮮動乱特需景気が、今日の日本の経済発展の礎になったこと。ハルピン郊外の石井四郎部隊長の「731部隊」の細菌戦の資料を進駐軍に渡し、そのために一番の非道な行いをした張本人の石井四郎が、資料提供が免罪符となり、戦争犯罪人にはならなかった陰の部分があったこと。
そしてその資料が用いられ、細菌戦、毒ガスなどが実戦に供せられたなど。
 対岸にこどもの姿が

遊覧観光船に乗った一同は、幅広い大河の鴨緑江のはるか対岸まで一巡することにしたらしい。白波を立てて遊覧船は北朝鮮の岸辺をゆっくりと回っていた。岸辺には大勢の軍服を着た兵士が作業のような事をしていたようであるが、何をしていたかははっきりしない。しかし誰1人として遊覧船を眺める兵士はいなく、黙々と作業らしいことをしていた。私が確認したわけではなかったが、小さな子どもが、観光客が手を振ると、それに応えて、手を振っていたという。
兵士達にはもし観光客船がきても一瞥もしないようにという軍の厳しい規則があるのかも知れ無い。我々一同の感想は同じ社会主義の国でありながら、どうしてこのように天と地ほどの経済格差があるのであろう。と言うことであったが、中国国内においても、経済の格差は天と地ほどの違いがある。 下記の写真は丹東から対岸の北朝鮮の沿岸

# by mikino70 | 2007-10-11 08:10 | 満州今昔物語

満州今昔物語 37  

2007年 10月 11日

満州今昔物語 37

旧満州鉄道の旅編 12(九、一八 記念館)
今回の旅行の日程の中で、一番残念であったのは、「九.一八記念館」の見学時間が極端に短いことであったろう。参加者の皆さんは口々に短すぎてなにも見ることは出来なかったと言っていた。旅程の時間を切り詰め、土産物店も回らねばならないからと言って、このような大事な歴史記念館の見学をないがしろにされてはたまったものではない。
私は八年前にも見学しているので、どこがどのように変わったのか調べようと思った。写真は撮れない、口頭の説明はなし、展示されている写真、日本語の説明文を読む時間はおろか、素通りで突っ走るしか時間はなかった。
 ただ明らかに違っていたのは、より友好的な展示内容に変わってきたことである。以前は満州全土の展示物が多く、特に印象的であったのはハルピン郊外にあった、七三一部隊の生体実験の様子が目を背けたくなるほど、描写が生々しかった。それが全面的に無くなっていたこと。そして明らかに中国の政府にとって嫌いな日本人、小泉首相と石原慎太郎の事が描かれていたことである。
全館写真撮影は禁止であったが、最後の出口に掲示されていた、「中国語、英語、日本語」から、日本語のみ写真撮影し、その全文を書き取った内容(全文のママ)である。
以下は全文のままをデジカメで撮しその映像を拡大して転記したものである。

「私たちが展示室を出て行こうとする今、おそらく人々のそれぞれの心のなかで、血を滴らせているであろう。 そして一滴また一滴の血が一連の疑問符となって固まっているようである。日本帝国主義は、なぜあえて泱々(おうおう)たるわが中華に向けて凶刃を振り上げたのか。ここに展示されている写真は、ことごとく確固たる事実であるのに、なぜ今日に至っても、それを正視できず、甚だしきは、それを歪曲し、改ざんしている者がいるのか。立ち遅れては殴られるが、どうして立ち遅れることになったのか、
ここに展示されている写真は吶喊している。この吶喊は我々に何を呼びかけ、教えているのか。「英雄を忘れたら、民族は堕落の国になる」「苦難を忘れたら、
苦難は再び国の門を叩く」
「まず自分から始めよう、今から始めよう」「中華の振興はすべて国民の責任だ」と呼びかけ教えているのであろう。」 (2007,5,18撮影)

中国人にはわかりやすいであろうが、日本人には理解しづらい言葉も並んでいる。
なぜあえて泱々(おうおう)たる  写真は吶喊している などの言葉は、日本人には分かりづらい。ここで明らかに言いたいことは、中華の国この中国に、なぜ日本帝国主義の凶刃が振り下ろされたのか、そしてその事実を隠蔽しようとしている日本の政治家もいることを明らかにし、中国の生んだ英雄を忘れるな、世界に冠たる中国は、国民1人ひとりの意識と行動にある。と結んでいる。
この文章のなかに中華思想の最たるものが潜んでおり、日本人よ、油断めさるなと囁いているような気がする。

# by mikino70 | 2007-10-11 08:05 | 満州今昔物語

満州今昔物語 36  

2007年 10月 11日

満州今昔物語 36

旧満州鉄道の旅編 11(旅順ふたたび 2)
大連の遼寧師範大学に同期派遣の友人がいて、よく遊びにいきながら交流したものであった。彼の宿舎のすぐ下に、与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」の全文の詩文がひっそりと建立されていた。
晶子が詠んだこの詩文は日露戦争に出陣する末弟を詠んだ内容としては、反戦の内容の詩文として有名であった。

「ああ をとうとよ、君を泣く 君死にたまふことなかれ 末に生まれし
 君なれば 親の情けはまさりしも 親は刃をにぎらせて 人を殺せと
をしえしや 二四まで育てしや」以下続く
大町桂月が、この晶子の詩を、国家観念を蔑視した危険思想として糾弾する。それを知った晶子の夫、与謝野鉄幹が大町桂月の私宅に殴り込みをかけるという一幕もあった。
またこの頃(明治三八年)大塚楠緒子の「お百度詣」という詩も「君死にたまふことなかれ」に次いで有名であったという。

「ひとあし踏みて夫おもひ ふたあし国を思へども 三足ふたたび 
夫おもふ 女心に咎ありや 朝日に匂ふ日の本の 国は世界にただひとつ 
妻と呼ばれて契りてし 人もこの世にただひとり かくて御国と我夫と  
いずれ重しととはれなば、答へずに泣かんのみ お百度詣りに咎ありや」

明治の時代の末、このような詩文が雑誌に掲載されて、戦地に赴く夫の無事の帰還を願う妻の切ない気持ちを表現できた。
もしこれが太平洋戦争時代ならどうであろう。晶子の弟は兵舎で毎日のようにいじめられ、最前線に追いやられたであろう。そして一番先に戦死したであろう。しかし晶子の末弟は、日露戦争で生き延び、また乃木大将の兵士として活躍した。

この頃の情報網は新聞雑誌しかない。ラジオもテレビも無い時代、戦争の情報はマスコミにとって桁外れの金儲けであった。新聞、雑誌そしてラジオがあらわれて、人心を操作してゆく様子は当時の文献を調べたり、戦時中の日本放送協会(NHK)のプロパガンダの放送内容を聞けば、唖然としてくる。このようにして全国民を、戦時一色に塗り替えて思想改造していったことが分かってくる。

旅順の街も八年前に比べれば穏やかになったようだ。日露戦争激戦地は旅順の観光コースの目玉になって、多くの日本人が訪れるようになった。しかしどれほど多くの人たちが、かつてこの旅順で残虐な行為が行われていたかを知る人は少ないであろう。
罪のない一般市民が18、000人も虐殺され、その死体処理に36人だけが残されたこと、その事実をアメリカの新聞「THE WORLD」が報道したが、伊藤博文首相が箝口令を敷き、日本人には一切知らせないようにした。その事実は旅順の博物館にも、中国の教科書にも詳しく載っている。
日本の若者は近代史を学習していないから、旅順がどこにあるかも、何があったかも知ってはいない若者が多いのではあるまいか。

# by mikino70 | 2007-10-11 08:02 | 満州今昔物語

満州今昔物語 35  

2007年 10月 05日

満州今昔物語 35
旧満州鉄道の旅編 10(旅順ふたたび 1)
旅順を訪問したのは、もう8年前に遡る。寒い冬の日であった。瀋陽師範学院に派遣された同期のK先生とお嬢さん、そしてガイド役は瀋陽師範学院でも指折りの俊秀、日本語検定試験に一番でパスした2年生の王君であった。

旅順の街角には銃を持った衛兵が、要所要所に配置されていた。軍港旅順は軍事機密基地、黒い銃口がなんとも不気味であった。
 「ここは外国人進入禁止地区ですから、一言も話さないでください。日本人である事が分かると何をされるかわかりません」といわれたことが記憶にある。
203高地は粉雪が舞っていた。凩が吹き付けていた。乃木大将の筆になる爾霊山の文字、山頂の砲台は106年も置かれたまま、眼下に望む旅順の港に停泊するロシアの船舶を撃沈したその砲台は、何事もなかったように鎮座していた。

さて今回の203高地である。一昨年までは何のためらいもなく、登ったものであったが、今回の長春のプラットホームで、全員小走りに走っただけで、その夜は気分が優れなかった。ゆっくり登れば何とかなるであろう。ゆっくりとマイペースで登っていくことにした。
乃木大将の爾霊山の詩文が見えてきた。乃木はこの旅順で予想もしない多くの日本兵を戦死させてしまった。二人の息子も日露戦争で命を落とした。
乃木は愚将であったのか

明治国家の誕生以来、旧陸軍には134人の大将がいたという。西郷隆盛、乃木希典、大山巌は、軍人としてすぐ頭にひらめくが、軍人よりもむしろ政治家として著名な大将は大勢いる。山県有朋、桂太郎、東条英機、田中義一など多数いるが、乃木希典の軍人としての評価はすこぶる良くない。
司馬遼太郎の「坂の上の雲」では、徹底的に愚かな将軍として描かれている。人物の器では西郷に比べるまでもなく、前線の指揮官としては用兵のまずさから、死ななくてもいい数多くの兵隊を死に追いやり、軍政官、政治家としての評価は皆無に等しい。
 しかし乃木の名前が100年以上経った時代にもその名が残っているのは何故なのだろう。この203高地を見た後、乃木とロシアの将軍ステッセルが会見した水師営で昼食をとった。水餃子がすこぶる旨かった。そのときの写真にまつわるエピソードが、いかにも武士道を貫き通した乃木希典の面目躍如である。

 水師営で海外の新聞記者が、降伏したばかりのロシアの将軍達の写真を撮ろうとした。ところが乃木将軍は後世まで残る写真を、降伏したばかりロシア兵の姿を撮ることは、日本の武士道が許さない。何とも格好の良い言葉ではなかろうか。「そのかわり会見が終わり、友人として並んでいる写真ならいい」と乃木は語ったという。後世に残る水師営の写真は、ほんとうに戦争で殺し合いをしたのかと疑うほどの、両軍笑みさえ浮かべて並んでいる。敗軍の将を労る乃木の武士道精神は、欧米のマスコミでも高く評価された。この話は、欧米でも好感を持って受け入れられ、特にアメリカの世論を親日に導く役割をしたという。
この時から乃木の評価が変わったという。水師営は昔のママであった。

# by mikino70 | 2007-10-05 05:55 | 満州今昔物語

<b>満州今昔物語 34  

2007年 10月 05日

満州今昔物語 34
旧満州鉄道の旅編 9(6年ぶりの大連 3)
大連は7年前の人口は520万人程度、現在では580万人を越している。今では中国の3大港湾都市(上海、天津、大連)の一つとして発展を遂げ、この港から大型船が出入りしている。来年の北京オリンピック、2010年の上海万博にむけてインフラ整備は急ピッチ。金物の需要は大きく、日本から、アメリカから、ヨーロッパから金属製の製品が盗掘されたり、持ち去られたり、それを積載した貨物船が上海の、大連の沖とおく荷下ろしの順番を待つのに停留しているという。
 
いま私の手元に、大連の100年前の20世紀初頭に、撮られた一枚の写真がある。撮影は1906年、南山山頂から大連の市街予定地、港湾付近に僅かの建物、東清鉄道が建設した火力発電所の煙突が見えるだけ。それが12年後の1918年になると、満鉄の住宅を始めとして、多くの社宅などが建築され始めた。
わずか12年の間の建築ラッシュはすさまじいものであった。
 帝国主義諸国の世界分割が激しくなった19世紀末、この中国でも東南アジアでも列強の支配が、この中国を植民地化しようというよりも、清朝の間に条約を結び、土地を租借しようとするものであった。
 当時7つの海を支配していた大英帝国が世界の物流と人間、情報を一手に支配しようとしたのに比べ、帝政ロシアは北に偏った国であったために、南下政策をとり、不凍港をめざして、大連や極東の軍事拠点として旅順を手に入れようとした。そこから日露戦争の前兆が見られて、リトルイエローモンキーと言われた日本がロシアに大勝して、太平洋戦争へ突っ走る国内の空気ができあがっていく。

懐かしの星海公園
大連水産学院に勤務していた頃、この星海公園の海で泳いだことがあった。誰か石切あそびの石が、中国人女性の体にぶつかり、カンカンに怒った中年のおばさんが「犯人は誰だ」と憤怒の形相で若者達に詰め寄っていたことを思い出す。
遠くにバンジージャンプの大きな施設が見える。
 水産学院の宿舎の5階から見下ろすと、この星海公園が遙かに望むことが出来る。岩場に糸を垂れる若者、大きな船が小舟20艘あまりを曳航して黄海の沖へと連なっていく海の風景、あの風景は今も変わらない。
大連に住むことは中国人にとって垂涎の的である。風光明媚、温和な気候、海産物が豊富に獲れる、全国的に風景絶佳の処として、国は風致地区の保全管理に相当の金をつぎ込んでいる。
 中国国内は海産物が内陸まで行き渡らない。保冷技術のこともあるけれど、大連で獲れる魚を北京まで運搬し、庶民の口に入るまでにはかなりのコスト高になる。星海公園の近くには日本人目当てに一棟5000万円もの豪邸が建てられたのは8年前、今回の旅行で分かったのは、南山街に1億5000万円もの日本人向けの大邸宅が何棟か建てられた。しかし一棟も売れていない。
日本人金持ち、その内に売れるだろうと中国共産党が建てたらしいのだが、いったい、どの日本人が買うのであろう。

# by mikino70 | 2007-10-05 05:50 | 満州今昔物語

満州今昔物語 33  

2007年 09月 23日

満州今昔物語 33
旧満州鉄道の旅編 8(6年ぶりの大連 2)
 ヤマトホテル(大連賓館)でのカラオケの一夜
札幌を出発する前から、大連ではカラオケの夜を送ろうと、同行者に話をしていた。大連だけで2600社もある日本企業、そのなかで単身赴任者の憩いの場は日本カラオケである。東南アジアの諸国のベトナムでもカンボジア、マレーシア、シンガポールでも、日本式カラオケは必ずと言っていいほど、夜の商売がつきものであり、まずそれがないことを昼間に確認しておいた。
退職老人ばかりであるから、粋な身なりでも懐は寂しいし、顔の色つやが良くてもその道を卒業した人がほとんどである。1人3000円以内にするのが私の任務であるし、なにかと日本人から金を出させようとする事は、目に見えていた。まず実に瞳の涼しげなチイママが登場してきた。
「いらっしゃいませ。お飲み物はビールでよろしいですか。ホステスは何人つけますか。全員でよろしいでしょうか」「何人いるの?1人いくらだい」軍資金の乏しい身には気が気でない。
「いまのところ10人くらいです」「そんな10人も払う金はない。3人にしよう」「それじゃ皆さんここに整列してください。ハイこの中から3人選んでいただきたいのです」とチイママは平然と言ってのける。人身売買じゃあるまいし、10人の女性から3人選ぶのは、とても私にはできなかった。選ばれた女性は今夜の収入になるから、嫣然と日本のジサマ連中を眺めている。しかたがないから男性から一人ひとり合計3人の歌姫を選んでもらうことにした。日本の中年男性に選ばれた女性はそれぞれ、その男性の好みのタイプなのであろうか。
7人の女性は次の客のお呼びを待つことになるシステムである。反日デモの体勢をとらず静かに立ち去っていった。悔しかったであろう。どうして私が選ばれなかったのかと、憤然とその場を後にしたように思えた。
 
参加の仲間は、カラオケの専門家ばかりである。現にある組織のカラオケクラブの会長、一週間には一度レッスンを受けている男、曲数は少ないが「おゆき」を歌わせたら内藤国男も真っ青になる男、平成の時代の歌は知らないが昭和の歌はほとんど歌いこなす男など、次から次へと、チイママの采配で選曲を入力し、中年男の美声、塩辛声、だみ声などが、ヤマトホテルの一隅に響き渡った。
 チイママはハルピンの出身だという。ロシア人の血が混じっているのではないか。ハルピンはロシア人の創った街である。100年も昔からハルピンに居を構え現地の女性と結婚した人も多いと聞く。大連は中国国内でも数少ない美人の産地である。男女とも贅肉の絞れたスタイルの良い若者が多いが、中国人と日本人の体位の平均値は変わらないと言われている。長江以北は体位がすぐれ、以南はずんぐりむっくり型の中国人が多い。しかしなにしろ56の民族である。それぞれの民族の顔に、体格に微妙な違いがある。
 我々日本のシニア代表の歌が上手すぎたのか、普段の日本人の客と、歌唱力に開きがあったのか。ハルピン出身のチイママは「みんな上手すぎておかしい」とのご挨拶であった。

# by mikino70 | 2007-09-23 08:08 | 満州今昔物語

満州今昔物語 32  

2007年 09月 23日

旧満州鉄道の旅編 7 (6年ぶりの大連 1)

ハルピンから9時間、夜汽車に揺られたという感触もなく、ただゴトン、ゴトンという単調な音が聞こえただけで、朝5時頃には、もう窓外は幽かに朝靄の立ちこめる大連の郊外を汽車は走っていた。さあ着いた、6年ぶりの大連である。懐かしい岡田さんにも、教え子にも会うこともできる。そして中国カラオケ体験も予告していたので、仲間も楽しみにしているであろう。
 
この大連に住んだのは1999年から2年間、大学の宿舎から一時は高級マンションに住み、私立学校の日本語の主任となって破格の待遇でお世話するからという好条件を鵜呑みにし、生徒募集の結果を待っていた。
ところがである。英語の生徒は100人も応募したのに、日本語は5,6人しか集まらず、その間、高級マンションの同じ屋根の下で、フイジー島出身の見上げるほどの大きな女性と過ごしたこともあった。

 教え子の二人が私の大連到着を心待ちにしているであろう。一人は金君という朝鮮族、彼は札幌の我が家にも2度訪問し、そのたび日本酒をごちそうしたが、旨い酒ですね、とは言わなかった。なにしろ最低でも35度の白酒をストレートで飲むことが、中国酒の味わい方、わずか15度位の日本酒では水のようなモノであろう。彼は日本企業のマネージャーとなっている28歳、近いうちに日産の車を購入するという。シンジラレナイ境遇である。
もう一人の学生には、私のパソコンの使い古したモノを2台送り、中国との交信、そして彼が奈良教育大に留学生になってきたときも、そのパソコンで日本の生活の辛さを切々と訴えてきたものであった。一緒に大連市内を雨のなか家探しをしたことを思い出す。心優しい優秀な学生であった。

岡田さんの大邸宅で再会
岡田さんは1998年大連に中国語の留学生となってやってきた。留学生とは世を偲ぶ仮の姿であり、留学生ビザをもちながら、大連にて事業を興そうと考えていた人である。アメリカでの生活も長く、英語は堪能、事業展開の先見性があったのであろう。中国のIT関係の先魁となった人であろう。
「やあやあーしばらく、あんまり変わらないね、」と互いに声を掛け合い、岡田さんの手料理をご馳走になりながら、その後の生活のあれこれ、そしてこれからの展望を語りあった。二人の元学生は、ほとんど聞き役であった。
「中国の景気は上海万博までという話もありますが、どう思われます?」
「中国に住んでいると、経済の活力は肌で感じるね。富裕層は年ごとに増えていき、3000万人から4000万人、その後に12億以上の人たちがいるのです。
かつての日本の戦後がそうであったように、日本人の知恵と努力でこんな経済大国になった。やがて日本と同じように低所得の人たちは次第に富裕層になっていくでしょう」という話であった。

IT関係の会社は、きわめて優秀な中国人を社長に据えて、今や100人を超す従業員、岡田さんの時代の先見性を見る目は的確であったようだ。心臓の大手術をしたのに、まだまだ意気軒昂、これから雲南地方で暮らしたいと呟いていた。

星海公園のなか、向こうにバンブージャンプが見える

# by mikino70 | 2007-09-23 08:04 | 満州今昔物語

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